ご由緒・縁起

日本一社 お松大権現御由緒

お松大権現は、有馬、鍋島、と共に日本三大怪猫伝の一つとして名高い。
時は天和、貞享年間(一六八一〜一六八六) 日本一社お松大権現御由緒 阿波国那賀郡加茂村は不作続きの年をむかえ、この村の庄屋惣兵衛は村の窮状を救うため、私有の田地五反を担保に、近在の富豪野上三左衛門よりお金を借り受けていた。
返済期限も近づき、丁度通りがかりの三左衛門にお金を返すが、通りがかり故(証文)を受け取っておらず、庄屋惣兵衛は間もなく病死する。惣兵衛の死後、その妻(お松)は幾度となく証文を請求するが渡そうとしない。 後にお金は受け取っていないと偽られ、担保の五反地までも横領される。思案の末、奉行所に申し出るが、お松の華麗な容姿に心を寄せ、食指を動かそうとする奉行越前。お松は奉行の意に応じなかった為 、また三左衛門からの(袖の下)を受け取っていた奉行は非理非道な裁きを下してしまった。お松は権力におもねる悪業に死を決して抗議する。それはことの真相を公にする(直訴)であった。 貞亨三年正月、藩侯の行列をよぎり直訴、その年の三月十五日、お松は日頃寵愛の猫(三毛)に 遺恨を伝え処刑に殉ずる。
その後、三左衛門、奉行の家々に(怪猫)が現れ怪事異変が続き、両家は断絶している。
正義へのかぎりなき執念に死をも厭わず貫き散ったお松さまの悲しい生涯、その美徳を偲び今も参詣者は絶えない。
現在、(お松大権現)と崇められ、その社殿には千万の招き猫が奉られている。

御由緒 「直訴」より抜粋

 貞享三年の正月のことであった。
駕籠に前後する長い行列が続く。
そこをよぎる白い影があった。
行列はたちまち乱れ駕籠をとり巻く。
『無礼者!』と、声が飛び交い騒然となる。
すでに刀を抜き放った者もあった。
その時、『まて!』と、これを制する低い声があった。
この騒ぎで僅かに駕籠を開けた藩主の声である。
駕籠の前に白衣の若い女が伏していた。
慈悲を請い差し出す書状、それは正義と真実を賭した命の叫びであった。悲愴がにじむ顔容が妖しいまでに美しい。お松の姿におもわず藩主も息をのんでいる。
『吟味しておこう!』との藩主綱矩公の御声。
お松の目には涙が浮かんでいた。
 行列はもとの隊形にかえり、何事もなかった様に通りすぎてゆく。
瞬時の出来事であった。
 当時、藩主、大名への直訴は、その是非に拘らず死罪である。命にかえた訴えも取り上げられない事もある。ましてその場で無礼打ちに遭うこともある。
 お松の身は即刻、徳島城下塀裏の獄舎に繋がれたが、処刑の日まで現在の保釈と言う形で役人監視のもと帰宅を許されている。


御由緒 「処刑」より抜粋

 刑場は、現在のお松大権現社より西へ二百米の地点に伝説五反地があり、更に西へ二百米離れた加茂川が那賀川に合流する加茂の河原であった。
役人に伴われたお松は白衣の装束。結を解かれた長い黒髪は背に流れている。
 村人たちは物陰から死出の別れを悲しみ見送る。すすり泣く声と念仏の声が入り交り聞こえる。
 お松には子がなく、我子の様に猫三毛を寵愛した。
いつもお松の側を離れない。この事件の真相を見つめていた唯一の生証人であった。お松は、この猫に遺恨を言い含めたと言う。
 刑場の設けられた席につくお松には、澄みきった静けさがあった。望月の淡い光芒を集めて仕置役人の構えられた刃が冷たく光る。
 折しも川風が吹き荒び、お松の長い黒髪は、炎となって逆立つ。月の光が白衣のお松を浮きたたせ、逆立つ黒髪が“光背を持った美しい菩薩像”の様に役人達の目に映った。
菩薩の切ることのためらいが生じた役人たち。
 しかし、断行せねばならなかった。役人たちの口々に念仏の唱和が流れだす。
刀は弧を描いて一閃。叫びなく猫にも情の一刀が振り下ろされる。
 時に貞享三年三月十五日のことであった。